不可能を可能にしていこうとすることの代償
新小児科医のつぶやき:2.18企画にTB。

同時に夢見るかえる : これは現代の魔女狩りであります。にもTB。現状への危惧とそれでもなお医者としての信念を貫くという強い決意が伝わってきます。

本事例についてはある産婦人科医のひとりごと: 癒着胎盤で母体死亡となった事例を参照して下さい。

我々は福島事件で逮捕された産婦人科医師の無罪を信じ支援します。


私自身は、医師ではなく、一介の鍼灸師です。が、立場は違っても、治療をするという点においては同じ地点に立っていると感じることも少なくありませんし、人ごとだとは思えません。

年々増える医療過誤とそれに伴う訴訟がいったい何を意味するのか、ということは治療者と患者、患者の家族といった置かれている状況によって異なることは必至で、そこから見える事実は一定するはずもありません。
ただ、医療過誤の有無やその問題性は別にして、こういった傾向を強くしているのは、ひとえに進歩や発展を渇望する人の〈わがまま〉であり、それを問題とする必要があるのではないではないでしょうか。

人はこの世に生を受けてから、約束された死へと向かって人生という旅を続けます*1

多くの場合、その途中でけがもすれば病気にもなります。そこで人は、その災いへの対応を迫られ、その結果として無病息災という理想を追い求めることになるわけですが(度を過ごせば不老不死になりますが)、その求める方法や望む未来像によっては、かなわぬことも出てきます。それが不治の病であり、究極は死です。その残酷にも感じる避けようのない事実は、繁栄を願う人にとってはいつの時代も克服したい一大事でした。特に現代医療は、その目的を達成すべく目を見張るような発展を遂げ、一昔前では死を迎えていたであろう人でさえも生きていられることが多い時代を築き上げました(その進歩は今なおとどまることを知りません)。けれども、その大きな発展によってもたらされた生は、来たるべき死というものへの意識の希薄さも同時にもたらしたとも言えます*2
 
人は本質的にはわがままですから、〈ないものねだり〉をします。病や不可避な死を乗り越えんと努力して得た生は、次第に〈当然のごとき出来事〉としてそのありがたさを忘れ、(寿命や病気、医療過誤など理由は様々だが)思いがけず迎えた死に対して〈不当〉なこととして今まで以上の憤りを覚えるようになるのです。

医療を行う者の仕事は、おそらく〈治る〉〈治らない〉を見極めることにあると思います。あとは、それに従い告知、治療をするだけで、まさに〈人事を尽くして天命を待つ〉のみなのです*3。治療を受ける側からすれば、〈治らない〉とはけしからん、と思うかもしれません。けれども、人は必ず死にますし、死を避けるすべを持たない人は、同じ人にできることなど微々たるものです。それに予後がはっきりするだけでも実に喜ばしいことなのです。いつ治るのか、あるいは死を迎えるのかわからない〈不安さ〉や〈あがき〉よりも、今後付き合う病気のことや残された時間を正確に知ることによりもたらされる〈覚悟〉や〈あきらめ〉の方が、どれだけよいか*4

今は、太陽とともにあった(静=夜と動=昼のめりはりのある)肉体疲労中心の社会から、ストレス社会と呼ばれるように、欧米化による飲食の偏向や机上での過労、人との利害関係のもつれ、利便性や経済効率の追求による昼夜を問わない生活などなど、精神疲労が主体となっています。それにともない、病気の様相も一変し、これまでになかった新しい病気が次々と登場し、人を悩ませています。裏返せば、こういった生活環境に身を置いている以上は、ほっておいてもやってくる〈寿命〉よりも先に、みずからが死を近づけてしまっている、ということになるでしょう。

人が人に行う医療には、おのずと限界があります。みずからが死を近づけていることを知れば、なるべく遠ざける方法もまた見えてきますし、それが最善(事前)の策であることも了解されるというものです。つまりは、しきりと言われる〈生活習慣の改善〉が重要であり、それこそが〈病気の予防〉につながる大切な方法なのです*5

病気になるのは、理由は別にして、ほかでもなくその本人です。自分の身は、いかなる場合においてもまずは自分で守らなければなりません。それでも及ばないときにはじめて医療が必要になるわけで、しかし先にも述べたように、医療という枠を通して見える予後というものは、(誤診を除けば)誰にも動かすことはできません。
ですから、最後はやはり個人がそれに対して責任をおわなければならないのです*6

医療は、あくまで生きるための〈手助け〉にしかすぎず、死を回避するための〈救済〉ではないのです。

無病息災やふさわしい死は、自身の力でつかみ取るものなのです*7

【注】
*1:中国医学ではそれを「虚」と言います。「生」そのものを端的に示した概念で、体の内にあって「生」を支える蔵(五蔵)の気が虚していくこと(働き消耗していくこと)であり、またそれによって「生」が実現されていると捉えるのです。常態である「虚」は、内(陰)なる蔵気の虚ということから、「陰虚」あるいは「蔵虚」とも称し、最も基本となる生態観であり、同時に「病」の初期段階として基礎となる病態観でもあります。
*2:現代医療の本質は、体内の病巣(問題箇所)を除去する外科ですから、一時的な苦痛は伴うものの、成功すれば瞬間でその病気とは縁を切ることができてしまいます。それは華々しくもあり、喜ばしいことでもある一方で、そのような苦痛に満ちた状態に至った理由や経緯を考える契機を奪っているとも言えます。最後の砦として重要な手段ではありますが、もっともっと「楽して治ること(によりそれを起こしている原因を忘れさせてしまうこと)の恐ろしさ」を問題とするべきだと思います。
*3:したがって、多少の〈上手〉〈下手〉はあるにせよ、病気の予後を判断する以上は、それを越えて〈治せる〉世界が存在するわけでもありませんし、またそうできると考えること自体がおこがましいことなのです(しかし、なおも可能性を求めるのが人ですし、そういった切実な思いがあるからこそ医学が発展していることもまた確かです)。
もちろん人が下す判断ですから、再検討による変更も可能ですし、刻々と変化する病態もありますから、それに伴う新たな判断も生じます。またいわゆる誤診もあります。
*4:だからといって、何も手を打たずに死を待ってくださいということでは全くありません。現状を理解した上で、少しでもよい状態を目指していく方が建設的であり、患者と医者の双方が関係を損なわないための大切なプロセスなのです。
*5:例えば『淮南子』人間訓に「人皆軽小害、易微事、以多悔。患至而多後憂之。是猶病者已惓、而索良医也。雖有扁鵲、兪附之巧、猶不能生也。(人は皆な小害を軽んじ、微事を易(あなど)り、以て悔多し。患い至りて後に之れを憂うこと多し。是れ猶お病者の已に惓(はげ)しくして。良医を索(もと)むるがごとし。扁鵲、兪附の巧有りと雖も、猶お生かす能わざるなり。)」とあるように、すでに2100年ほど前からこのような苦言があったわけで、人は今も昔も変わらず同じことに悩んでいるのです。ちなみに扁鵲や兪附は中国の伝説上の名医ですが、病が進み手遅れの状態になってしまってはその二人をもってしても治すことはできないと、だから病の軽いうちから手を打ち、もっと言えば未病のうちに治療(予防)をした方がよい(それこそが名医である)と、耳が痛いことを淡々と述べているのです。
*6:死に至らない病でも、例えば花粉症やペットアレルギーといった最近の病気もまた、本人の問題になるのです。花粉やペットは、症状を起こす媒体であるにせよ、原因は反応してしまうその人の体の状態ですから。そういった観点に立てば、花粉を飛ばす植物や毛や汚物をまき散らすペットを排除することが根本的な解決策ではないことは自明ですし、それこそが人の〈傲慢さ〉の象徴なのです。もし植物や動物、あるいは地球そのものに、人と同様の発想があったならば、どうなると思いますか。答えは簡単ですね。人を排除すればよい、それだけのことです。他に原因を求めるのではなく、まずは自分を見つめることは本当に大切なことです。
同様に、初歩的なミスは問題外ですが、医者が真剣に向き合った結果としての死は、遺族のみならず医者にとっても悲しい出来事ではありますが、きたるべき死であったと、どうしようもないことであったと理解しなければならないと思うのです。まぬがれない死は、医者でもどうすることもできないのです。ここはよくよく考えなくてはならないと思います。
*7:健康を保つためには、その人の〈養生〉が最も大切ですが、‖里両態を知るために、あるいは△茲ぞ態を保つために、最終的にはI袖い亮N鼎里燭瓩法医療を利用すればよいのです(△砲弔い討脇辰肪羚餔絣悗それに長けています)。医療を、一方的に頼る〈救い〉としてではなく、〈より健康に生を全うするための手段〉として位置づければ、不安な心持ちも楽になるのではないでしょうか。

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