今月の言葉(2008年05月)
「故用兵之法、無恃其不来、恃吾有以待也」 『孫子』九変篇より

「故に用兵の法は、来たらざるを恃(たの)むこと無く、吾の以て待つ有るを恃むなり」

戦の原則は、敵の襲来のないことをあてにするのではなく、いつ敵が攻めてきてもよいような備えが自分にあることを頼みにすることである。治療も同様で、いまだ「病」の至らぬ状況に安心するのではなく、いつ「病」が襲ってきても打ち勝てる状態を保っておくことが重要である。よくよく考えてみれば、「病」はどこからか襲ってくるものではなく、その理由は別にして我が身に生じる不調であるから、そもそも打ち勝てる状態が保たれていれば、不可避な「老い」はあっても、「病」に至ることはないはずである。
 
続いて「無恃其不攻、恃吾有所不可攻也。(其の攻めざるを恃むこと無く、吾の攻むべからざる所有るを恃むなり。)」と述べられる。

上文と同じことを言うも、敵の攻撃してこないことをあてにするのではなく、敵がこちらを攻撃できないような態勢に備えることを頼みとしなさいと、より具体的に説明する。こちらの方が治療の要として考えやすく、「病」にならないような状態を保持することが最も大切であると解することができる。今は表向きに「病」のない状況にあるだけで、刻一刻と「死」へと傾いている私たちは、いずれなんらかの形で大なり小なりの「病」を経験することになる。しかし、できうる限りの対策を常に講じていけば、それを極力小さいものにできる可能性を持つだろうし、その年齢相応のよい状態を得られるだろう。なお、「病」はどこからかやってくるものではなく、己の身の内に生じる変化であることを忘れてはならない。

『素問』四気調神大論篇に「夫病已成而後薬之、乱已成而後治之、譬猶渇而穿井、闘而鋳兵、不亦晩乎。(夫れ病、已に成りて後に之れに薬し、乱、已に成りて後に之れを治め、譬えば猶お渇きて井を穿ち、闘いて兵を鋳るがごとし。亦た晩らざらんや。)」とあるように、事が起こってから対処するのでは後手にまわり遅いのである。「聖人不治已病、治未病(聖人は已病を治せず、未病を治す)」という文言に象徴されるように、中国医学が症状の治療ではなく、際立った症状のない段階からの日常的な治療に重きを置く所以である。


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