今月の言葉(2009年03月)
「将不聴吾計用之、必敗、去之」 『孫子』計篇より

「将に吾が計を聴きて之れを用いざらんとすれは、必ず敗る。之れを去らん」*1

私の計略を聴くも、その計略を採用しないのなら、敗戦は目に見えているのだから、[その責任を押しつけられても困るし、そもそも自分はこの国にとって不要な存在なのだから]私はこの場を去りましょう、と言うのである。
そもそも「百戦百勝、非善之善者也。不戦而屈人之兵、善之善者也(百戦百勝は、善の善なる者に非ず。戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者)」(謀攻篇、08年02月の言葉を参照)であって、戦をせずに国を全うすることが最善であるが、もし戦をかまえるならば「善戦者、勝於易勝者也(善く戦う者は、勝ち易きに勝つ者)」であり、また「勝兵先勝而後求戦(勝兵は先ず勝ちて後に戦いを求む)」(形篇、08年03月)ものであるから、勝算のある[あるいは十分な勝算を得られる状態に整えられた]場合にのみ踏み切るべきである。そのために、「知彼知己(彼を知りて己を知り)」(謀攻篇、09年02月)、「策之知得失之計(之れ[=敵状]を策りて得失[自己の利害=勝算]の計を知る)」(虚実篇、08年09月)必要がある。なお、「知勝有五(勝を知るに五有る)」(謀攻篇、09年01月)ため、それらを熟知していなければならない。そうすることで「百戦不殆(百戦して殆からざる)」(謀攻篇、09年02月)状態になれる。
だから、「上兵伐誅(上兵は謀を伐つ)」(謀攻篇、08年02月)こと、すなわちはかりごとをもってはかりごとを制すること、はかりごとをめぐらして勝ち(勝算)を得る[敵に負けない国力を備える]ことが最善とされるのである。つまり、軍師はそうした総合的な計略を立てられる者でなくてはならないし、君主あるいは将軍は、軍師のそうした計略をよく理解して、それに従い行軍すべきである。そうすれば、「将聴吾計用之、必勝、留之(将に吾が計を聴きて之れを用いんとすれば、必ず勝つ。之れを留めん)」ということになるのであるが、もし十分に理解せず、勝手に行軍すれば勝てる戦も敗戦することにもなるだろう。

治療においても同様で、施術者は病の状態のみならず病者の衣食住などの生活環境などを総合的に判断し、状況に応じた治療方針を立て治療(生活指導も含む)にあたるものである。病者はその治療方針を理解し、施術者の指示に従い治療に専念していけば、おのずと結果もついてくるだろう。しかし、治療方針を十分に理解せず、気の向くままに行動し、また病状の勝手な判断で治療間隔を自らで決めたりすれば*2、治るものも治らないことになるだろう。こうなると、施術者は軍師ではなく、都合のよい相談者になりはて、治療も肩もみのごとき慰安と化し、もはや治療の体をなしていない。さすがに依頼を断ることはしないけれども、ただでさえ難しい状況にある場合が多いのだから、指示を違えて経過が芳しくないのはやむを得えないことで、その責めは自ら負ってもらうしかないだろう*3

治療とは、病者が好き勝手に治療方法や治療日を選択して進めることではなく、軍師たる施術者の的確な指示に従い、ともに進めていくものである。


*1:「将」を助字ではなく、主語として読んでもよい。また「将不聴吾計、用之必敗、去之(将、吾が計を聴かず、之れを用うるも必ず敗る、之れを去らん)」と句読するも可。この場合、「私の計略を聴かない将軍を、そのまま用いるなら必ず敗れることになるであろから、辞めさせる」という意になる。謀攻篇に「夫将者国之輔也(夫れ将は、国の輔なり)」(08年12月)とあるように、国の存亡を握る重要な人物であるから、はかりごとに疎い無能な将は、国を危うくさせるのみで、もはや将たる資格を有していないのである。
*2:自覚している症状が軽減されると、良くなったと思い込んでしまい、勝手に治療間隔を空けたり、中断することが多々見られる。けれども、そうしたものの多くは、一時的に軽くなったものであり、一定期間が過ぎるとまたもとに戻る。それだけならばまだしも、さらに悪化することもしばしばである。それは、治すべき時に治していかなかったためで、慢性化すればするほどなお治りは悪くなるばかりである。特に慢性的な病は、ひどくなる季節や悪化させる衣食住の状況などの影響を受け続け、体を支える諸機能(中国医学では、それを五蔵と言う)がだんだんと低下したことではじめて生じるため、そもそもの根が深いのである。だから、たとえ早い段階で軽くなっても、それはむしろ一見してよいというだけ、つまり表向きには問題がないように見えているに過ぎず、根本的な問題が何ら解決されていないことがほとんどであるために、まったく安心できない。そうした判断は、施術者が診察によってその都度診断するもので、病者が妄りにするものではない。
*3:辛辣な言い方になったが、実際にこうした例が多いのが現状である。「○○で何度か治療したけれど、一向によくならない」、あるいは「○○で何度か治療して最初はよかったけれども、次第に効かなくなってきた」、だから「鍼灸治療でもしてみようと思った」という話を初診時によく聞く。甚だしいときは、ここに至るまでに治療を依頼した「○○」の先生の腕は悪いなどと、下手呼ばわりすることもある。確かに、対応がよろしいとは思えない場合もないわけではないが…。しかし、冷静に事の経緯を見れば、それだけ病状が重い、難しい病であるのではないかという考えに思い至るのが自然で、したがって「鍼灸治療でも」すれば「すぐに治る」わけがないのである。鍼灸は、他の治療法と同様に、固有の診察法を持ち、その診断に基づいて治療を進める。だから、[マスコミが誇張して報じているような]神秘的な効果などはないし、病状の重さに比例して治療もそれだけ地道に重ねていかなければならない。
そもそも、病を生じさせる原因は、自身の不摂生であったり家庭や学校、職場などでの人間関係、住環境などなど様々であるが、その理由の如何に関わらず、病を得たのは他でもない病者自身であることは、まぎれもない事実である。だから、その責任を他人におしつけることはできないし、それを解決していくのも病者自身であることを自覚しておく必要がある。施術者は、病を解決していくための指針を示すのが主たる仕事であって、治療は病者と施術者との共同作業なのである。
なお、施術者はあらゆる背景を持った病者に対応できるよう、日々研鑽を積むことは言うまでもない。でなければ、施術者たる資格はないのだから。
これらの諸問題については、資料室の鍼灸の話「難しいものは誰がやっても難しく、簡単なものは誰がやっても簡単である」にて詳論してある。あわせて参照されたい。


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