季節の話:花粉症の話(新訂版)  
【花粉という問題】
春といえば花粉症、という人が年々増えているように思います(鍼灸治療を昨年から続けている人にとっては、成果を確認できる季節です)。
この花粉症は、花粉の飛散量に比例して症状の軽重が変わる人もいれば、量の多少に関わらずひどい人もい、なんとも不思議な印象を受ける病気です。

本当に「原因である花粉」が問題なのでしょうか。

この春という時期に花粉症に苦しむ人が多くいる一方で、花粉が大量に飛散してもまったく平気な人が同時にたくさんい、他方で家の中でマスクをするなどして完全防備していても症状が出、そのうえ外の天候に左右されるという人も少なくありません。こうした人々を診るにつけ、どうしても花粉とは別の要因があると考えざるを得ないのです。そうしなくては全体の説明がつかず、また理解もできず、ましてや鍼灸の治療などは進めようもないのです。

【個人差という問題】
花粉症の経験者の中にも、なぜ家の中に居て花粉を避けているのに症状が出るのだろうか、なぜ雨で花粉がそう飛んでいないはずのに症状がひどのだろうか、そうと思えば晴れていても平気なのはなぜだろうか、あるいは昨年は花粉の量が多くても軽かったが今年は少ないのにひどいのはなぜだろうかなどなど、挙げればきりがありませんが、自身の症状の在り方に疑問を抱く人は少なくないでしょう。
こうした違いを個人差だと誰もがいいます。しかし、それで片付けてしまって、まったく顧みられることはありません。

なぜなら、「花粉が原因なのだから仕方ない」とあきらめてしまっているからです。

私には、この個人差こそ注目すべき問題だと思うのです。この個人差は、同じ花粉に対する個人の反応の違いであり、この違いは個人の状態の在り方に起因しているはずで、こう考えることで対応の仕方もずいぶんと変わってくることでしょう。

個人差を考えるということは、「花粉の受け手の状態」を考えるということです。

こうした視点から花粉症を見つめなおすと、「花粉に問題があるのではなく、問題は別にある」と思えてきませんか。

【本質的な問題】
もう少し花粉症の原因である花粉について考えてみましょう。
もし原因である花粉がすべての問題であるならば、量の多少に関わらず皆が花粉症でなくてはならないはずですが、実際には違います。ましてや先に挙げた量に左右されない花粉症などはあろうはずもないのですが、これもあります。これらのことを説明するには、どうしても「花粉の受け手の状態」という観点を持ち込まなければならないですし、またそうした問題を無視するわけにはいかないと思います。
それに、そもそも花粉は、特定の条件下で花粉症を引き起こす媒体となるのであって、それ自体は人を害するものではありません(この「特定の条件」とは、いうまでもなく「花粉の受け手の状態」のことです)。

こうしたことから、「花粉の受け手の状態」の良否が症状の有無や軽重の違いを生じさせる絶対条件であることは自明で、なによりも問題とすべきは「花粉の受け手の状態」であると、そういっても差し支えないでしょう。

現に、マスクをしたり布団や洗濯物を外に干さないといった花粉を遮断するという手段では、一時的な回避策として有効となるものの、根本的な解決策には一切なっていないですし、また薬によって症状を抑えることも、あくまでも対症的な緩和措置でしかなく、「花粉の受け手の状態(特定の条件)」を変えていく治療にはまったくなっていないことは周知の通りです(こうした対策が功を奏さない場合も多々ありますが…)*1

花粉を問題としている間は、毎年同じことの繰り返しで、何も変わらないのです(それだけならまだしも、悪化していくことも多々あるためなおやっかいです)。

本質的な問題は、「花粉の受け手の状態」です。

こうした観点に立てば、花粉を作る杉などを伐採するというような対策案は、おろかで傲慢な考えであることがきっとわかるはずです。(花粉の問題視は、見当違いであり、ここまでくると悪質な問題のすり替えといっても過言ではないでしょう)。

「受け手の状態」が「花粉に反応する状態」であるときにはじめて、その人にとって「花粉」は花粉症の原因となるのです。

もう一度繰り返せば、「花粉に問題があるのではなく、花粉の受け手の状態に問題がある」のですから、私たちが問題とすべきは「花粉ではなく、花粉に反応するその人の状態」でなくてはなりません。

【五蔵の状態という観点】
では、「花粉の受け手の状態」、「花粉に反応するその人の状態」とは何かということを具体的に考えてみましょう。
中国医学では、身体についてまずその構造を「五蔵(内)」と「外形」とに陰陽二分して考え、内(陰)にある「五蔵」という機構の働きが、外(陽)に現れている身体のすべて(「外形」)を実現していると認識します。「五蔵」の働きを「蔵気」といいますが、この「蔵気」の在り方=「五蔵の状態」があらゆる生理と病理の状態を決定づけるというもので、別のいい方をすれば、何らかの原因で「蔵気」が衰退すれば、「五蔵」は失調し、その現れとして「外形」に様々な不調が生じることになるというものなのです*2

以上をふまえれば、「花粉の受け手の状態」を「五蔵の状態」、「花粉に反応するその人の状態」を「五蔵の不調和(失調)」とそれぞれ置き換えることができるでしょう。

なお「蔵気」の衰退は、生きていることそれ自体で漸次進むものですが、寝不足や暴飲暴食などの不摂生であったり家庭や学校、職場などでの人間関係、住環境などなど様々な要因によってより加速的に進んでいくことになります。その度合いにより、出てくる症状やその軽重などの違いが生じ、それのみならず飲食・大小便・睡眠・精神状態などの細部に至るまで何らかの変調をきたすことになるのです。
したがって、花粉症も「蔵気」の衰退によって起こる不調の一つということができますが、しかしそのために単一の症状として現れることはまずなく、本人が意識しているかは別にして、必ず同時に種々の変調が認められます。もちろん、「蔵気」の衰退の程度により症状の軽重が変化することになりますから、毎年の症状の違いや全体としての体調の善し悪しの差も出てくるわけです。

鍼灸の診察と治療は、「外形」(主な症状をはじめ飲食・大小便・睡眠・精神状態の変調などの諸症状と脈状)から「蔵気」の在り方、「五蔵の状態」を把握し、その不調和をツボを介して是正していくことにあります*3。ですから、「蔵気」の極端な衰退が終息し、「五蔵」に一定の調和が戻れば、それに伴い花粉症を含めた様々な不調が解消されることになるのです。

「花粉の受け手の状態」=「五蔵の状態」、ひいては「花粉に反応するその人の状態」=「五蔵の不調和(失調)」を問題にすることで、根本的な解決策を講じることができるようになるのです*4

【春の病という視点】
ところでこの花粉症は、どんなにひどいものであってもおおむね2月にはじまり5月の連休までに終息します。それは、原因である杉の花粉がちょうどその期間中に飛散しているからということで済ましても構わないのですが、しかしその後もヒノキやブタクサなど通年で花粉は飛散していますし、「花粉の受け手の状態」を持ち出したとしても、なぜ多くの人が杉花粉にだけ異常なまでに激しく反応するのかという疑問がどうしても残ります。
花粉症の理解をより深めるためには、中国医学の観点からさらに説明される必要があります。

中国医学には、中国古代の自然と人は「気」を一にしている、つまり自然の「気(四時や四方など)」と人の「蔵気」とが対応しているという考え方(天人感応)が根底にあります。この対応関係は、自然の変化が人にも同様の変化をもたらし、また人の変化の中に自然のそれを見出すことができるというもので、たとえば人の「五蔵(肝、心、肺、腎と脾)」は自然の「気」の一つである「四時(春、夏、秋、冬と土用)」に対応し、その影響を受けるというものなのです。なお自然や人の「気」の在り方は、五行(木、火、土、金、水)に統括され、相生(木→火→土→金→水→木→…、木が火を生じ、火が土を生じるというように隣りのものを循環生成していく関係)と相剋(木→土→水→火→金→木…、木が土を剋し=勝ち、土が水を剋すというように向かい合うものの勝ち負けの関係)という関係性を持つことになります。これらの対応関係は以下の通りです。

木−春−肝  火−夏−心  金−秋−肺  水−冬−腎  土−土用−脾

ここで、しばしば用いている「気」について触れておきますが、この「気」ということばは事物の在り方を端的に示すためのもので、○気と記すことで○の状態や性質、場所などを一言で表現します。ですから春の在り方であれば、それを春気といいます。

さて、花粉症のはじまりだす2月初旬はちょうど立春にあたり、終息する5月の連休中頃は立夏にあたっていますから、この3ヶ月間は季節でいえば春になります。季節(四時)という観点から見直すと、病の推移と季節の移り変わりとがきれいに合致していることから、両者に対応関係があることがはっきりと見て取れます。
つまり、花粉症を春に生じる病として考えることができるのです。

春には春の在り方があります。万物を春たらしめる気といってもよいですが、それを春気といいます。この春気は物事を「発生」させ、「生長」させ、「動」かす*5といった働きがあり、「変化」させるという性質から風気ともいわれます。また五行的には木気であり、人の肝という蔵と気を同じくしますから*6、春になると風気(春気)が盛んになると同時に人の肝気も旺気することになります。この時、五行の関係は木>土、木>金となり、同様に五蔵の関係も肝>脾、肝>肺となることが通常の変化であり、その状態を五蔵が春に対応していると見なすのです。

しかし、日々の精神疲労により恒常的に肺や脾の蔵気が衰退している人*7にとっては、春気の影響による蔵気のバランスの変化が病を起こさせる原因となるのです。
恒常的に肺や脾の蔵気が衰退しているということは、もともと肝気が両者に対して相対的に強く、五蔵の関係が肝>脾、肝>肺となっています。こうした素地があるうえに春気の影響を受けて肝気がより旺気することで、さらなる格差の拡大をもたらし、結果的に肺や脾の蔵気のいっそうの衰退をまねくのです(肝≫脾、肝≫肺)。こうした蔵気の関係の変化は、春気の旺気によってもたらされた病的変化ということができますが、この場合を春気(風気)の過多といい、それはもはや万物を春たらしめる気ではなく、人に悪影響をもたらす邪気、すなわち「風邪」となってしまうのです。
「風邪」という邪気は、陰陽的には陽邪ですから、人の陽部(特に上半身)に動的(発生、上昇開泄、急速、熱化)な変化をもたらし、花粉症のような目や鼻の痒み(熱)と涙・鼻水などの液体成分を自動的に流出(開泄)させるのです*8。これが春の病であり、その中に花粉症も含まれているのです。
この春の病はいつまでも続くわけではなく、春から夏に移行する時に、春気が衰え夏気が盛んになるために、春気の影響によって生じていた病は終息することになるのです。ひどい花粉症もまた春の病であるために、5月の連休中の立夏を迎える前には消沈することになるわけです。
見方を変えれば、杉花粉の飛散も春の在り方の一つであることから、杉花粉もまた春気ということができます。しかしそうしてみると、たとえヒノキであってもブタクサであっても春の間に飛散したならば、それは春気ということができ、その時には杉花粉と同様の影響力を持つであろうことはおおいに考えられますし、逆に5月を越えて飛散する杉花粉はすでに春気ではないために、ほかの花粉と同様にもはや激しい症状を起こす力は備わっていないともいえるでしょう。もし、夏になって(春気の影響がなくなって)なおも激しい症状が続くとなると、終わるべき春の病が終わらないということから、その病状は重いものと考えなければならないのです。

それから、春の病という視点から、もう一つ説明しておかなければならないものがあります。たとえば不眠不休で何年も仕事を続けている(続けられている)ことで肝や腎の蔵気が極端に衰退している人*9にとっても、春気の影響は決してやさしいものではありません。
肝や腎の蔵気が極端に衰退しているということは、蔵気のバランスは脾>肝(肺>肝)、脾>腎(心>腎)となっています。こうした状況下で春を迎えると、春気の働きかけを受けても肝気は旺気することができず、季節相応の状態に達しないだけでなく、要求される値が他の季節の時よりも高いために、結果的に肝気の衰えがより顕著になってしまうのです(脾≫肝、肺≫肝)。こうした春気と肝気の矛盾(格差)は、肝気の異常な不足ということができます。この場合、肝気は木気であると同時に風気とも親和性がありますから、風邪様の症状が出ることになります。具体的には、あたかも木(の上方の幹や枝葉)が強風に吹かれるがごとく、ひどい回転性のめまい(頭部の揺れ)が起きることになるのです。これもまた春の病であり、この中にメニエール病も含まれるのです。やはり春の病であることから、春の時期がもっとも激しいことが望ましく、ほかの時期でも同様の激しい症状が出るとなると、それだけ難しい病であると判断されるのです。

要するに、春の病とは、春気の変化と「蔵気」の変化との矛盾(齟齬)、春気の影響による「蔵気」の不調和なのです。

「蔵気」は、自然の気と対応して変化するはずですが、自然の気の変化と「蔵気」の変化との間には程度の差こそあれ常に矛盾があります。それは、生きていることによる常態としての「蔵気」の衰退があるためです。したがって、自然の気との矛盾を最小限にとどめることが、病を遠ざけることにつながるということがいえます。
それには、不必要な「蔵気」の消耗をできるだけ避け、その補養に努めることが大切ですし、またそうすることでしか実現できないのです。

本質的な問題は、やはり「五蔵の状態」であり、「蔵気」の在り方なのです。

このようにして、季節という観点、四時の病という視点から病状を見るということは、季節の変化と病の推移を関係づけて見るということであり、それによって様々な病の推移を予測することができ、また季節と病の一致不一致から病状の軽重を知ることができるようになるのです。
もしこうした見方をしなければ、花粉症や喘息などの特定の季節に起こる病は、おおむねその時期を過ぎれば終息しますが、それだけに良くなった(治った)ものと思い違いをさせられ、根本的な治療を進めていく機会を奪われかねません。しかし、それは一時的に問題がないように見えているにすぎず、素地である「蔵気」の在り方そのものが何ら変わっていないのですから、翌年の同じ時期にはまた同じ症状に悩まされることになってしまいます。
したがって、季節の病の治療は、発症する時期にだけ行えばよいということにはならず、通年の治療により「蔵気」の衰退を少しずつ回復させていくことで、根本的な解決をはかっていかなければなりません。治療の成果は、もちろん翌年の病状変化により判断しますが、昨年度より少しでも軽いことが認められれば、「蔵気の衰退」は回復してきていると判定されるのです。

一見してよい時期こそ、自然の気の変化に対応できるよう「蔵気」を養い、「五蔵の状態」を整えていく大切な準備期間なのです。

治療とは、概して地道かつ地味な作業です。


【注】
*1:ペットアレルギーも同様のことがいえます。かわいいペットは、時として「飼い主の状態」によってはアレルギーを引き起こす媒体になってしまいます。期せずして原因となったペットにとっても、また飼い主にとってもそれはとても不幸なことです。さらに、カゼや冬に特有のインフルエンザ、ノロウイルスなども、例外ではありません(いずれも冬の気である寒気によるもので、「受け手の状態」の具合いによって両者がわかれます)。
原因は原因としてありますが、結果はすべて「受け手の状態」次第ということです。ですから、「受け手の状態」を保全していけば少々のことでは大きく体調を崩すことはなくなりますし、また様々な不調も回復していくのものなのです。
*2:これをひとことで「蔵象(ぞうしょう)」といい、「蔵の象(ぞうのかたち、またはぞうのかたどり)」と訓じます。先人の解説を二つ見てましょう。『素問』六節蔵象論「蔵象如何」の王冰注に「象、謂所見於外可閲者也(象とは、外に見わる所、閲すべきを謂う)」とあり、張介賓注に「象、形象也。蔵居於内、形見於外、故曰蔵象(象とは、形象なり。蔵は内に居り、形は外に見わる、故に蔵象と曰う)」(『類経』巻三・蔵象)とあります。何をいわんとしているかといえば、「外部から触知できるすべての生理・病理の状態(外形)は、内部の「蔵気」の現れである、それを「蔵象」というのだ」というのです。逆にいえば、外部から触知できるものはすべて「外形」であって、内部の「蔵気」の在り方は、「外形」によってしか捉えることはできない、つまり「外形」から「蔵気」の在り方を推定するしかないということでもあるのです。
「蔵気」は、あくまでも形のないものですから、「外形」から[陰陽五行による解析を経て]仮想的に構築された生態像であり病態像であるということができます。それは同時に、「気」を直感したり察知することができないということを意味しています。ありていにいえば、知覚されたものはすべて「外形」である(=「蔵気」は「外形」から構築された虚像である)という認識が根底にあるために、「気」の存在やその実体が何であるかということはいっさい問題とされておらず、したがって「気」を直覚することはもとより、そのための通常以上の感覚(修練や修業による鋭敏な感覚や悟りといった特別な感性の獲得)はまったく要求されていないのです。
中国医学においては、「外形」の陰陽五行的処理が「気」の在り方を捉えるための唯一の方法なのです。
これらの事柄については、鍼灸の話「難しいものは誰がやっても難しく、簡単なものは誰がやっても簡単である」の中で詳論しています。
*3:鍼灸がしばしば「気の医学」といわれるゆえんは、「蔵気によっておこる外形」という観点、「外形」の問題をそれ自体の問題とはせずに、「蔵気」の在り方の問題として捉えるところにあります。たとえ整形外科的な問題であっても、それを顕現させている「蔵気」の在り方が常に問題となるのはこのためです。それは「外形」の軽視ではなく、問題の中心をどこに置くかということによるもので、「蔵気」を問題とすることで、様々な症状を個別のものとしてではなく、関連する症状群として処理することができ、全身的な治療が可能となるのです。現代医学のように専門科目を設けず、それらを包括的に捉えていくこと、それが中国医学の身体観なのです。
中国医学が「気」を問題にする医学だとすれば、現代医学は「外形」を問題にする医学といえるでしょう。
*4:ただし、これを実現させるには、治療を重ねると同時に、「蔵気」の衰退を加速させる様々な要因をできうるかぎり是正していく必要があります。もし不摂生などをかさね続ければ、「蔵気」の衰退はそのまま加速し続けることになり、治療による減速もむなしく終わることになるからです。治療は、それなりの地道な努力を要し、結果はそうしたものと表裏一対なのです。詳しくは今月の言葉(2008年10月)を参照のこと。
*5:「春」についての訓詁は、以下の通り。『爾雅』釈天「春、為発生(春は、発生を為す)」、『管子』形勢解「春者、陽気始上、故万物生(春は、陽気始めて上る、故に万物生ず)」、『論衡』変動「使物生者、春也(物をして生ぜしむ者、春なり)」、『釈名』釈天「春、蠢也、万物蠢然而生(春は、蠢なり、万物蠢然として生ず)」、『説文』「蠢、虫動也(蠢は、虫動なり)」、『方言』十三「蠢、謂動作也(蠢は、動作を謂うなり)」、『周礼』考工記・梓人「則春以功」の鄭玄注「春、読為蠢、蠢、作也、出也(春は、読みて蠢と為す。蠢は、作なり、出なり)」など。 「風」についての訓詁は、以下の通り。『広雅』釈詁一云「風、動也(風は、動なり)」、『玉篇』云「風、以動万物也。風者、萌也、以養物成功也。散也。告也。声也(風は、以て万物を動ずるなり。風とは、萌なり、以て物を養い成功せしむるなり。散なり、告なり、声なり)」、『素問』風論「風者善行而数変(風とは善く行りて数たび変ず)」、同篇「故風者百病之長也(故に風とは百病の長(さきがけ)なり)」など。
*6:「肝」について参考になる文の一部を、以下に列挙しておきます(訓読省略)。『素問』金匱真言論「東方青色、入通於肝、開竅於目、蔵精於肝、其病発驚駭、其味酸、其類草木、其畜雞、其穀麦、其応四時、上為歳星、是以春気在頭也、其音角、其数八、是以知病之在筋也、其臭臊」。 同書・陰陽応象大論「東方生風、風生木、木生酸、酸生肝、肝生筋、筋生心、肝主目。其在天為玄、在人為道、在地為化。化生五味、道生智、玄生神、神在天為風、在地為木、在体為筋、在蔵為肝。在色為蒼、在音為角、在聲為呼、在変動為握、在竅為目、在味為酸、在志為怒。怒傷肝、悲勝怒、風傷筋、燥勝風、酸傷筋、辛勝酸」。 同書・金匱真言論「肝者、罷極之本、魂之居也、其華在爪、其充在筋、以生血気、其味酸、其色蒼、此為陽中之少陽、通於春気」。
*7:近代化にともなう就労形態の変化により疲労の様相も肉体の疲労から精神の疲労へと一変し、恒常的に肺や脾の蔵気が衰退している人が本当に多くなりました。長時間机に向かい、体ではなく頭を使って思慮することで脾気を消耗し、また気を張り詰めたり、人間関係のトラブルなどで憂慮したり悲愁することで肺気を衰微させていくのです。
煩雑になるため、これ以上の深入りは避け、参考になる文章の一部を挙げておきます(訓読省略)。『素問』陰陽応象大論「思傷脾」、「憂傷肺」、宣明五気篇(『霊枢』九鍼論)「久臥傷気、久坐傷肉」、挙痛論「悲則気消」、「思則気結」、『霊枢』邪気蔵府病形「形寒寒飲、則傷肺」、本神「愁憂者、気閉塞而不行」、「脾愁憂而不解、則傷意」など。
*8:【五蔵の状態という観点】の中で、内(陰)にある「五蔵」という機構の働きであるところの「蔵気」の消耗(衰退)によって生命が維持されていること、また花粉症は「蔵気」の極端な衰退によって起こることを述べました。この「蔵気」の消耗を「蔵気虚」「蔵虚」といい、また「陰虚」ともいいます。それは陰(内、下、冷、静、死に通ず)が不足し陽(外、上、熱、動、生に通ず)が有余するという陰陽の偏りを意味し、そのために熱(体温)や動きといった生が実現されているということができます。生の常態である「陰虚」は、様々な要因によってさらに進むことになりますが、その果てに「陽実」という陰陽の極端な偏向が生じることがあります。この場合を「風邪」が入ったといい、春の気である風気にも通じています。素地として過度な「陰虚」=「陽盛(陽実の手前)」の状態にある人は、春の風気がそこに影響する(加わる)ことで「風邪」と化すことになり、春の病を発症することになるのです。本文に述べた春の病は、五蔵と季節の五行的関係によるものですが、こうした「蔵気」全体の陰陽的問題を背景にして成立するものといえます。
なお、「風邪」の最も強い影響を受けた状態を「中風」といい、台風になぎ倒された大木のごとく、人がばったり倒れてしまいます。いったんそうなってしまうと、多くの場合、回復しても比較的太い枝が折れたように、人の手足も麻痺して動かなくなる半身不遂に至ることになります。
*9:理由の説明は煩瑣なため、参考になる文章の一部を挙げるにとどめます(訓読省略)。『広雅』釈詁一「怒、勉也」、「怒、責也」、『鬼谷子』権篇「怒者、妄動而不治也」、『素問』陰陽応象大論「怒傷肝」、「恐傷腎」、『素問』宣明五気篇(『霊枢』九鍼論)「久立傷骨、久行傷筋」、「腎蔵志(王冰注:専意而不移者也)」、挙痛論「怒則気上」、「恐則気下」、「驚則気乱」など。

2004/03/19初稿作成、2007/01/30改訂増補、2009/03/21新訂


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