今月の言葉(2009年7月)
「上雨水沫至、欲渉者、待其定」 行軍篇より

「上に雨ふりて水沫至らば、渉(わた)らんとす欲する者、其の定まるを待て」

上流に雨が降ったことで水があわだって流れている時には、それを歩いて渡ろうとするならば、流れが落ち着き一定になるのを待ちなさいという。
なぜなら、上流での雨がいかほどであったかなど、[遠くで起こったことなのだから]にわかにわかるものではなく、雨量によって河川の水量が遅れて変化するからである。小雨であればさして変わりないだろうが、集中豪雨であれば鉄砲水になるだろうし、長時間の大雨であれば氾濫の恐れも出てくるだろう。こうした危険を顧みずに向こう岸へ渡ろうとするなら、命の保証はない。
少しの変化をも見逃さず、よく状況を見極め、もう大丈夫(安全)という通常の状態に戻ったことを確認しないうちには進むべきではないのである。あるいは増水した状態では渡ることは困難であるし、鉄砲水や洪水ともなれば非難せざるを得ず、いずれにしても水かさの戻るのを待つ[間にいつ引いても出発できるように準備しておく]よりほかはないのである。

これは、私たちが日常的に出くわし、意識的にまた無意識的に処理している身体の変化にもあてはめることができるだろう。わずかな変調を感じた時に、それを無視して過ごすのか、あるいはしばらく注視し、これまでを振り返り、これからの動向を予測して何らかの対策を講ずるのかという、具体的な行動の選択のことである。
多くの場合、ちょっとしたストレスや寝不足によるいわば小雨程度の軽い疲労で生じるごく短期的な変調であるため、たいした問題にはならず、たとえ増水してもそれはわずかで水の引き(復調)も早く、足止めを食うことは少ない。また比較的多いのは、集中豪雨のようなごく短期的な激しい疲労により、鉄砲水様の激しい変調をきたすことである。それは一過性であっても激流である以上、一時的な足止め(寝込むこと)は余儀なくされる。こうした短期的な疲労も、長雨のように断続的にあるいは継続的に積み重なっていけば、次第に総体としての雨量が増え、結果的に大雨に匹敵する影響力を持つようになり、初期の変調をはじめ、その後の増水量(不調の程度や種類)も目に見えて増していく。そうなると水の引きも遅くなり、それだけ足止めされる時間も長くなる。なおも雨が降り続ければ、水が引くはおろか、増水に歯止めがかからず、ついに堤防は破られ、氾濫した水は周辺にも甚大な被害をもたらす。いよいよ事態は重大となり、水が引いてもすぐには渡れないばかりか、これまで必要のなかった周辺の復興にかなりの時間と労力を余計に費やさなければならなくなるのである。

誰の目にも明らかな危険な状況下で、無理に渡ろうとする人はそういるものではないが、それでも断行すれば、その結果はもういうまでもないだろう。だから、どんな状況であっても、基本的には悪あがきをせず、水の引き(復調)を待つ[間に疲労の雨を早くやませ、時間とともに回復していくよう着実に治療をかさねていく]のが得策なのである*1。どうしたって雨量(疲労の度合い)によって、増水量(病状やその重さ)も水の引く時間(回復するまでの時間)が変わるのだから、早く渡りたければ、それ以上雨を長引かせることはしないのがよい*2*3


*1:症状のひどい時には、治療は焼け石に水も同じで、何をしてもそう一気に変わるものではない。しかし、水をかけ続けなければ、なかなかさめないし、たとえ自然にさめるのを待つといっても、石を常に焼き続ける火がまわりにあるようでは、いつになるのか定かではない。だから、そうしたまわりの状況も併せ考え、先々の病状変化を見極め、治療を進めていかなければならない。
*2:ほとんどにおいて、すでに水量の増した段階、すなわちある程度悪化した状態から治療を開始するため、目に見えた症状の変化はしばらく感じられることは少ないし、まだ増水の序の口(症状の出始め)であったり、さらに増水するような状況にあっては治療を継続していても一時的な悪化はやむを得ない(悪化の一途ということもないわけではない)。だからといって、治療が上手くいってないとか、奏効がないと即断するのは勘違いも甚だしく、[そう判断すること自体が、これまでの経緯やこれからの状況予測が全くできていないこと、盲目であることを証明しており]それこそさらなる失敗を招くことは必至である。
逆に、どんなに長患いであっても、すでに水の引くべき時期にさしかかっていれば、ちょうどその時に治療を開始すれば早くに回復したように見えるだろうし、あるいは単に一時的な激しい雨やちょっとした小雨程度であれば、ほっておいてもすぐに好転するのが当たり前である。こうした状況下でのよい治療結果を、上手くいったとか、效を奏したなどとすぐに判断することも、やはり浅はかといわねばならない。
水の引くべき時期を見誤ることなく、それを確かに迎えて無事に渡れるようにすること、要するに症状の治るべき時期を見据えて治療を続け、予測されたその時期までに回復させていく手助けをすることが私たちの仕事なのである。
こうした多様な状況がわかれば、「すぐに治ること=腕の良い医者」でも「すぐに治らないこと=腕の悪い医者」でもないことはうなずけはしないだろうか。良医たるもの、患者の様態をつぶさに診て、予後の診断と適切な治療をしていくものである。何も聞かずに、患者の訴える主な症状だけですべてを判断し、いたずらに投薬や施術をするだけでは、患者となんら視点が変わらないではないか。これについては、鍼灸の話「難しいものは誰がやっても難しく、簡単なものは誰がやっても簡単である」にも触れてあるので、併せて参照されたい。
*3:余談になるが、たとえ水の引きを待ってようやく通常の状態に戻ったとしても、渡るにはまだそれなりの準備が必要となる。川には幅の大小、流れの緩急、水の深浅や清濁、川底の石の大小などなど地勢に違いがあるのだから、そもそも注意すべき点が多く、また同じ川の中でも渡る場所によって一つとして同じ条件の場所はないのだから、よくよく注意して見定めていかなければならない。
こうして石橋を叩くようにして渡るとしても、目測はあくまでも目測に過ぎず、川は止まることなく常に流れて(つまり流動・変化して)いるために、じつは歩いてみなければ川の状況などはわかろうはずもないのである。目測通りであれば難なく渡れるだろうが、目測が誤っていれば、渡り切るのに苦労するだろうし、あるいは途中で引き返さざるを得ないかもしれないし、またいつ溺れ死ぬとも限らない。渡りきるまでに何が起こるかは定かではないのだから、まことにやっかいと言わねばなるまい。
一寸先は闇とはいえ、しかし目測がなければ盲目も同じで、それこそ無謀である。渡る前にも渡っている最中にも絶えず状況の把握と判断に努め、それを頼りに渡るしかないのである。
そうした目測の助け役を買うのが軍師であり、予後(先々の健康状態の変化)を診て治療していくのが鍼灸師といえるだろう。

◆資料室へ戻る◆
| yoshioka49in | 資料室 | 00:01 | - | - | -