今月の言葉(2009年8月)
「主不可以怒而興師、将不可以慍而致戦」 火攻篇より

「主は怒りを以て師を興すべからず、将は慍(いきどお)りを以て戦を致すべからず」

君主も将軍も、憤怒にまかせて、いたずらに軍を興し合戦をするべきではないという。
同じく病者も治療者も、思いにまかせて、いたずらに治療するべきではない。

そもそも、憤怒に燃えてしまうような状況、もっといえば悲嘆や喜楽に過ぎるような状況は、いずれも感情に過度の起伏(ブレ)を生じさせ、つまり冷静さを失わせるため、決してよいものではない*1
治療についていえば、感情を揺すぶる状況とは、病苦(病状)にほかならない。この病苦を快方に向かわすには、まず病者の前向きな心持ちがおおきな意味を持つが、それは病苦(にさいなまされる自身)と対峙する「不動の決心」ともいうべきもので、これこそが病苦における冷静さなのである。こうして治療に望むのがよい。治療者もまた、いかなる病状(や病苦を訴える病者)にも動揺せず、落ち着いて診察しなければならない。
要するに、気持ちがおおきく動揺する局面での行動には、いうまでもなく平生以上の冷静さが求められるのである。そのような時に感情の命ずるままに動けば、事がどう展開するかはまったくわからないし、多くの場合、冷静さを欠いた行動は失敗に終わるのだから。

では、冷静な行動とはいかなるものか。

それは、「合於利而動、不合於利而止(利に合えば而(すなわ)ち動き、利に合わざれば而ち止む)」ということである。「利」とは、利害得失、勝算のことで、冷静に利害得失や勝算を計り(状況を判断し)、それに応じた適切な行動を取ることがなによりも大切なのである。
治療においては、病の正確な診察と診断(病状と予後の判断)、それにもとづく治療法の選択のことで、そこにはいかなる感情も入り込む余地がない*2

人は、特に窮地に陥れば、冷静さを失い、焦り、判断を誤るものである。そして無謀にも、利益も勝算もないのに不用意に動き、損失を被り負けを喫して、いっそう弱みは増し、つけ込まれる隙をさらに広げてしまう。ただでさえ分が悪いのに、自らの首をさらに絞めていく。まさに自滅である。
病者も、病状が悪ければ、冷静さを失い、不安と焦りの中で、その場を逃れたい一心で「藁にすがる」過ちを犯すことが多々ある*3。病には、戦と同じく形勢がある。それを病状というが、病者や治療者の思いとはまったく無関係に、病勢の有無によって悪化すべきは悪化していき、改善すべきは改善していく。病状の判断は、軍師たる治療者が冷静にかつ客観的に行うべきものであり、病者が主観的に判断することは危険である*4

怒可以復喜、慍可以復悦、亡国不可以復存、死者不可以復生(怒りは復た喜ぶべく、慍りは復た悦ぶべきも、亡国は復た存すべからず、死者は復た生くべからず)」というように、(いつまでも悪い状況が続くわけではなく、したがって)憤怒は一時的な感情の高まりに過ぎず、いずれは(状況が好転して)喜楽に戻るが、もし一時の激情にまかせて動いたことで失敗し、ひとたび国が滅び、人が死ぬようなことになれば、それを再生することはもはやかなわない。
究極は、取り返しのつかないところまで突き進んでしまう危険を、おおいにはらんでいるのである。

だから、「故明主慎之、良将警之(故に明主は之れを慎み、良将は之れを警(いまし)む)」というように、聡明でよき君主、将軍たるものは、戦をするに慎重を期し(冷静な判断をもってし)、いましめる(安易にしない)ものである。
治療を進めるにあたっては、治療者は診察に正確を期し、病者は冷静に診断(病状)を受け止め、協力して適切な方法を選択すべきである*5

最後に、「此安国全軍之道也(此れ国を安んじ軍を全うするの道なり)」としめくくられるように、以上が国そして人を安泰にするための要道であり、ひいては治療の要諦となるのである。


*1:よくよく考えてみれば、人の感情は、千変万化する状況に反応して、一定することなく常に変化している。だから、多少の浮き沈みは正常なのであって、問題にならないしすべきではない。状況も感情も、無常なのである。ここで問題となり気をつけるべきは、正常な範囲を超えた過度の変化、つまり極端な上下や起伏を起こさせる状況であり感情である。
話はややそれるが、人は変化に富む状況にあっては心の「平穏」を求め、変化に乏しい状況にあれば逆に「刺激」を求める。この欲求こそが、人の心がいかに変化に富んでいるか、またそれを望んでいるかをよく物語っている。
*2:もちろん、「医は仁術なり」ということばがあるように、こうした思いも大切である。しかし、その思いだけでは何もなすことはできない。
*3:その最たるものが、「即効性」や「手軽さ」といった「甘いうたい文句」をかかげる何かに手を出してしまったがために、呼ばずともよいたくさんの「蜂」を、はからずも自らその「泣き面」に呼び寄せてしまうというものである。我をも忘れる病苦のない人は、冷静な人でもあるから、そうした「都合のよいもの」はないと容易に判断できるし、そもそもそうしたものを必要としていないために、悲惨な事態に陥ることはまずない。生まれついてすぐより窮地に陥っている人は別にして、普通はそれなりに元気で、ある程度冷静でいられる時を無意識的に過ごしている。困った時にこそ、そうした時のおぼろげな記憶を少しでも思い返して、少なくともこれ以上足を滑らせて坂を転げ落ちないように、なんとか踏みとどまっていただきたいと、常々思う。
*4:主観的とは、いわゆる素人判断といいかえてもよいが、治療者が主観的であっては話にならない。なぜなら、医学は、客観的であるからで、それに法る治療者もまたそうであるべきは繰り返すまでもないだろう。現在の鍼灸は、よく経験的・主観的、つまり極めて個人的なものと考えられ、またほとんどの場合、そのようにして実践されている。それは、客観性の不在、つまり伝統的な中国医学の理論が、今や衰退(崩壊)し、また否定(排除)されしまっていることを如実に示している。理論のない医学は、行き当たりばったりの応用の利かない対症療法的な治療しか許さない★。だから、病状の理解はまったくないがしろにされ、治療(を試してみて、それ)がすぐに効いたか効かないかという結果だけが問題となり、ひいては治療者の技術や経験のみが重視されるようになる。様々な技術が乱立し、それをこぞって取り入れるという実用性重視の折衷的な態度も、またそうした一つに偏せず様々な技術を習得した治療者が優れているとされる風潮も、その延長である。こうした観点に立っている間は、冷静さを獲得することは極めて難しいといわざるをえないだろう。ここで扱った一連の問題については、資料室の鍼灸の話「難しいものは誰がやっても難しく、簡単なものは誰がやっても簡単である」にも別の角度から論じている。あわせて参照されたい。
★伝統的な中国医学の理論とは、陰陽五行論、五蔵、経脈などのことで、それらを運用することにより、本来ばらばらである諸症状を系統的に捉え総括的(全身的)な治療が可能になる。より具体的にいえば、諸症状を系統的に捉えるために構想された内部システムを「五蔵」といい、その陰陽五行的関係性の不調和が諸症状を発現し、またその調和をはかることでそれらが改善されるというものである。もし、これらの理論を用いないとなれば、諸症状を個別的に捉え、対症的に治療するという道しかなくなるのはおわかりいただけるだろうか(それも「痛み」や「コリ」にほぼ限定されるという、極めて貧弱なものである)。こうした眼差しは、現代医学的といってよく、そうした思惟に慣れ親しんでいる私たちにとってはわかりやすく、また誰にも受け入れられやすいが(逆にいえば、伝統的な中国医学の理論が、誰にとっても馴染みがなくわかりずらいということであって、そのために倦厭される対象となる)、それ故に通俗的といわざるをえない。ありていにいえば、症状の解析を現代医学で行い、治療の道具として取って付けたように鍼と灸を用いるというもので、それも現代医学の専門家である医師ならまだしも、そうでない(ほんらい鍼灸の専門家であるべき)鍼灸師がそれらしくするのだから、まことに滑稽である。
とはいえ、本邦では中国医学理論を積極的に取り入れ本格的に運用したのは近世初期(江戸前期)であって、中期以降はちょうど今と同じようになんとか定着した理論は批判され衰退の一途をたどり、近代になって完全に崩壊した。そうした中で1930年代以降、現代医学の限界(不治の病がある)の露呈により理論的な鍼灸の必要性が高まり、再興の動きがはじまった。一時は隆盛を極めた(といってさしつかえないだろう)が、それもつかの間、歴史は繰り返すというが、これに対して江戸中期以降さながらの理論否定(理論の検証と実用性の追求)の動きが再び起き、今や衰退のまっただ中というわけなのである。なお、理論否定とともにその答えとして出てくるのが、極めて個人的・経験的な鍼灸であるが、これまでを振り返ってみれば、そもそも医学の底流には近世以前から脱理論的な鍼灸があって、その上にときおり理論的な鍼灸が乗っかるという構図であった。だから、今は古くからの脱理論的な鍼灸が頭をもたげてきた時期ともいえる。そうした経緯の中での現状であるから、ある部分では無理からぬことで、頭ごなしに否定はできないのだが…。
だからといって、その流れに身をまかせてせっかく近代に再興した伝統的な方法が廃れゆくのを、ただじっとながめていることはできない。鍼灸の今後を決めるのは、ほかでもない鍼灸に携わる人々である。一人でも多くの人々が、これまでの経緯と現状を理解し、文献を介した伝統的な中国医学理論の研究と運用を重ねていけば、少しは違った展開も期待できるだろうし、ぜひそうあって欲しいものである。
*5:様々な治療法を試すことは、治療に迷っていることと同じで、結局のところどっちつかずであるために、明確な結果は得られない。つまり、何かに打ち込むことができない、もっといえば何もできないということに行き着く。逆に、何かを一つ選択するということは、病苦(にさいなまされる自身)と対峙する「不動の決心」をしたことにほかならず、それによって何らかの明確な結果を得られる。たとえそれが結果的に間違ったものであったにせよ、明確な評価を下して、また新たな選択(決心)をすることができるという利点がある。
次回は、これに関連して地形篇「故知兵者、動而不迷、挙而不窮(故に兵を知る者は、動いて迷わず、挙げて窮せず)」を取り上げる。

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