今月の言葉(2009年10月)
「禁祥去疑、至死無所之」 『孫子』九地篇より

「祥を禁じ疑を去らば、死に至るまで之く所無し」*1

占いを禁じることで様々な疑念や邪念を去ることができれば、〔兵士たちの〕心は死ぬまでぶれることはない、という。
あるいはまた「投之無所往、死且不北(之れを往く所無きに投ずれば、死すとも且た北げず)」ともいい、兵士を行き場のない窮地に投入すれば、死すとも敗走することはない、というのである。

これらは、「凡為客之道(凡そ客為るの道)」、つまり敵国に進軍した場合の戒めであり、治療にも通ずる。
一見すると残酷な物言いと思われるかもしれないが、次の理由により納得できるのではないだろうか。

兵士甚陥則不懼、無所往則固、深入則拘、不得已則闘。(兵士、甚だしく陥れば則ち懼れず、往く所無ければ則ち固く、深く入れば則ち拘し、已むを得ざれば則ち戦う。)」と。

多くの場合、窮地に陥れば冷静さを失い、焦り、判断を誤るものである。けれども、それはまだまだ迷えるだけの余裕のある窮地であって、絶体絶命の状況ではない。ここで言う窮地とは、もう進む以外に選択する余地の無い状況を意味している。
その中にあっては、兵士の拠り所となって心に隙を作る占いは、まったく厳禁である。せっかくの背水の陣も、水泡に帰すことになるのだから。

治療も然り。病者にとっては、治療を成功させたい一心で、占いや祈祷に一縷の望みをかけたくもなるのもわかる*2*3。しかし、それは治療に専念できていないことの現れであり、迷いを増大させるはじまりでもある。裏返せば、まだ何らかの疑念があることを意味し、また右往左往できるだけの急迫した状況にないことを示している。

病者における行き場のない窮地とは、もうこの治療にかけるしかない、という状況であり、また、そう固く決意するという境地に至ることにほかならない。そして、病者をそこにうまく導くのが、治療者の手腕なのである*4


*1:「祥」とは、西晋・杜預が『左伝』僖公十六年「是何祥也」に注して「吉凶之先見者(吉凶の先ず見わる者なり)」といい、また唐・杜牧が黄石公曰くとして『三略』中略に引かれる『軍勢』の一節を引いて「禁巫祝、不得為吏士卜問軍之吉凶(巫祝を禁じ、吏士が為に軍の吉凶を卜い問うことを得ざらしむ)」と本節に注しているように、占いのこと。
*2:古くは『呂氏春秋』尽数に「今世上〔宋・黄震『黄氏日抄』巻五十六・十二紀作「尚」字〕卜筮祷祠、故疾病愈来。譬之若射者、射而不中、反修〔一作循〕于招〔一作的〕、何益於中。(今の世上、卜筮祷祠す、故に疾病愈いよ来たる。之れを譬えて射者、射りて中らず、反って招を修む〔反って的を循わしむ〕若し。何ぞ中つるに益せん。)」とあり、占いや祈祷を尊ぶは、まるで矢を射る者が、的を射ることができないのを的のせいにしているも同じで、疾病にはしかるべき治療を施すものだ、と揶揄している。医書では、『素問』五蔵別論や移精変気論、『霊枢』口問に、疾病の原因は、「鬼神(祟りや人知を越えた何か)」ではなく、必ず日々の生活にあり、したがって「祝由(まじない)」ではなく、湯液・鍼灸により治療せよ、といったことが述べられている。
*3:現在では、古代に比べさらに事情が複雑になっていると言わねばならない。占いや祈祷よりも、もっと事をややこしくさせるのが、種々の治療方法があるという選択肢の多さである。それも、インターネットで検索すれば容易に情報を得ることができるため、それだけ悩みの種も増すことになる。増加の一途をたどる情報群、それも玉石混淆であるから、精査し選び取ることは、まさに至難の業である。ただでさえ窮地に陥っているところにこの状況は、藁にすがるどころではなく、苦痛以外のなにものでない、と思うのは私だけだろうか。
*4:この手腕については、来月と再来月の言葉にて詳しく述べる。

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