今月の言葉(2009年12月)
「勝可知、而不可為」 『孫子』形篇より

「勝は知るべし、而して為すべからず」

勝ちを知る(勝つための態勢作りや、そのための作戦を練る)ことはできても、〔相手があること故に〕それを無理に成し遂げることはできない。
治療もまた同じく、治療者は予後を知る(病状をつぶさに診察し、病態に応じた治療方針を立て、それによる経過を予測する)ことはできても、〔患者の意思や事情があること故に〕その通りに事を運ばせることはできない。

先月の言葉(『孫子』九地篇「能愚士卒之耳目、使之無知」)の最後(注)に「種々雑多な情報を正確に理解し、選んだ治療方法に納得することは、方法が一つであるのと何ら変わるところはない。これが、「もうこの治療にかけるしかないという状況」であり、また「そう固く決意するという境地」に至った、と言ってよいだろう。とはいえ、あくまでも理想の話で、実際にはまだまだ難しい事情がある。」と書いたが、ごく簡単に言えば、こういうことである。

どんなに明確に、そして根気強く説明しても、それに納得しなければ、それまでである。頭で分かることと、納得することの間には、画然たる違いがある。そもそも、人は人に説得されるものではない。なにしろ人は、したいことを心ゆくまでしつくしてはじめて、良くも悪くも身を以てそれを実感することができ、そうして欲求を満たした果てに、ようやく拘っていた物事について客観的に評価することができるようになるのだから。結果はどうであれ、体験を通して納得すること、それを諦めといってもよいが、そうした状況に陥ることが、皮肉ではあるが、本当の意味で「もうこの治療にかけるしかないという〔まさに背水の陣という〕状況」に至るための、絶対条件なのである。

アトピー・喘息・鼻炎(花粉症を含む)などのアレルギーやうつ病・パニック障害などの精神疾患などといった治療に時間を要する難病*1には、その難しさ故に、その場をなんとかやり過ごすための種々雑多な対症的な治療(対処)法や健康法が氾濫している。こうした悩ましい状況下で、根本的な治療をしていく鍼灸のみを選択することは、まったく困難というよりほかはない。が、雑多な方法をそれなりに試したあげくに失敗し、それらに絶望した人ならば、大げさではなく、最後の望みをかけて、とことん治療に打ち込むことも可能になるだろう*2
なにしろ、「その場しのぎにガタガタしても、問題が先延ばしになるだけで、するだけ無駄」ということ、つまり「早く治したいと思おうが思うまいが、悪化させることはあっても、すぐに良くなるものではない」ということを、身を以て実感できたのだから。

「難しい病」であることを認め、受容すること、これぞ良い意味での「諦めの境地」*3と言うべきである。

病者が、迷うことなく、地道に治療を続けるための準備が、ようやく完了する*4

孫子曰く「昔之善戦者、先為不可勝、以待敵之可勝(昔の善く戦う者は、先ず勝つべからざるを為して、以て敵の勝つべきを待つ)」*5と。

故に、治療者の手腕とは、できうる限りの対策を講じ、病者が納得するまで待つことである。


*1:これに対して、風邪やインフルエンザ(新型を含む)、ぎっくり腰、寝違い、捻挫などのような急激かつ一時的な病は、たびたび述べてきたように、慢性化(長期化)を防ぐためにも、いっき(ごく短期間)に症状を解消させるための、相応の治療を施す。痛みの治療、それも緩和を主な目的とするものとして浸透しているようであるが、本来、鍼灸の守備範囲は極めて広い。
*2:時間をかけて地道に根本的な解決を目指す、鍼灸による治療は、様々な努力(生活習慣の改善や即座に緩和されぬ症状への理解など)がいるために、病者にとって極めて能動的な行為であり、自力で行っていく要素が強い。他方、症状の一時的な緩和(と自己の安心)を目的とした、薬やサプリメントなどの服用や塗り薬の塗布による対処は、すべて薬の効用に頼るために、極めて受動的な行為であり、他力の要素が強い。他力は、安易であるが故に気楽にはじめられるが、依存性が強く、やめるのにも相当の決意がいり、様々な苦労(副作用や再発への不安感)が伴う。その点、自力で継続しなければならない鍼灸は、それだけ依存性が弱く、あっさり中止できる。なにしろ能動的な行為なのだから。
「最後の望みをかけて、とことん治療に打ち込む」ことができるようになるには、それなりの代償も必要なのである。
ところで、治療者にとって(実は病者にとって)、もっとも難しいケースは、鍼灸と服薬の同時並行である。いずれ止めるべき服薬であるが、いざその段になると、すでに述べたように、それによる副作用や症状の再発、悪化への強烈な不安感が伴い、病者を極度に苦しめる。最悪は、せっかく重ねてきた鍼灸の治療を放棄してしまい、元の木阿弥ということも少なくないから、細心の注意を要する。
それから、同時並行にはもう一つ大きな問題がある。それは、しばらく続けても、病者が期待していたような結果が得られない場合には、一体どうするのかということである(すでに述べてきたように、すぐに結果が得られると考えること自体が問題であるが、今はそれを置いて)。例え結果がよくても、先の服薬中止の恐怖が待っているし、それをクリアしたとしても、また同じことを繰り返したときに、何を選べばよいかわからない。つまり、「効けばなんでも良い」という病者の思いは分かるが、何が良いのか、また良かったのかという評価をまったく下せないため、病者には何も残らないのである。致命的である。そもそも、一本化できないことそれ自体が、大きな迷いや不安の現れであり、それはやがてすべてを狂わす危険をはらんでいる。根気強い説明は当然として、しかし、最後は、病者が納得するのを待つしかない。
やはり、ベストは「もうこの治療にかけるしかないという〔まさに背水の陣という〕状況」に至った後に、鍼灸による治療を開始することである、がそう思うようにはならないのが現実である。
日々、治療者の手腕が問われている。
*3:病は、誰がどう思おうと、死と同様に、なんの斟酌もなくやってきて(実際には身の内より生ずるのだが)、悪化するべきは悪化し、治癒すべきは治癒する。けれども、すぐ治る軽い病は短期間で治り、すぐに治らない重い病はそれだけ長期的な治療が必要になる、という当たり前のことを、当たり前のこととして理解することは、思いのほか時間を要するものである。
*4:もちろん、最初から鍼灸のみという理想的な病者もいなくはないが、ごくまれであり、極めて少ない。迂遠なようであるが、程度の差こそあれ、こうした段階を経なければ、本気で治療に取り組むことは難しいし、できないことがほとんどである。
とはいえ、治療のスタートラインに立つのが遅ければ遅いほど、それだけ病はこじれ、慢性化してしまうことが多く、治療期間も相応に必要となるし、最悪は完全な治癒が難しくなることも否めない。病者をできるだけ早く治療に専念できる状況に誘導することが治療者の手腕である、ということは2009年11月の言葉(九地篇「能愚士卒之耳目、使之無知」)ですでに述べた通りである。
*52008年4月の言葉にて取り上げた。合わせて参照されたい。


 JUGEMテーマ:健康


◆資料室へ戻る◆
| yoshioka49in | 資料室 | 02:45 | - | - | -